戦国時代と北条氏
戦国時代、小田原城を本拠に関東一円を支配した戦国大名が北条氏(小田原北条氏ともいう)です。歴代当主5人(早雲→氏綱→氏康→氏政→氏直)は、北条五代とよばれています。
駿河の興国寺城の城主であった伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)は、関東で理想の国家を作ろうと延徳3年(1491)に伊豆韮山を平定し、次に明応4年(1495)には小田原に攻め入り大森氏を退け、小田原城に入りました。以後、北条氏は小田原を拠点として版図を拡大するとともに、多くの人材を上方から招き、産業を興し、着々と勢力を伸ばしていきました。2代目氏綱が関東支配の礎を築き、3代目氏康の時代には城下町の形態も整えられ、小田原は関東における政治、経済、産業、文化の中心として繁栄しました。そして、天下統一の機運が高まる中、4代氏政・5代氏直は、豊臣秀吉軍の攻撃に備えて町全体を取り囲む巨大な総構を築きましたが、天正18年(1590)、約18万の大軍に小田原を包囲され、約100日に及ぶ籠城戦の後、小田原城を開城し、北条氏は滅亡しました。
滝山城の特徴
滝山城はもともと大石氏の居城で、大永元年(1521)に大石定重によって築かれ、高月城から移転したと伝えられています。その後、大石氏の養子として入城した北条氏照が八王子城に移転するまで、関東屈指の城郭としてその威容を誇りました。
最大の特長は、加住丘陵の複雑な地形や多摩川の浸食によって形成された急峻な断崖を利用して築かれた天然の要塞である点です。標高約160メートルの丘陵上に東西約900メートルにも及ぶ広さで築かれ、南面を大手、北面を搦め手とし、城の中央部からに本丸・中の丸・二の丸・千疂敷・小宮曲輪等と配置されています。
掘・土塁などの遺構は築城から500年近くが経過した今もなお良好な状態をとどめています。また、地形を巧みに利用した縄張は、中世における城郭の歴史や文化財的価値を伝承していくうえで重要な遺跡であるとして、昭和26年(1951)に国指定史跡に指定されています。
滝山城主・北条氏照
北条氏のなかで滝山城に最も関係が深い人物は北条氏照です。氏照は3代氏康の三男で、4代氏政の弟にあたります。
天文15年(1546)、氏康が河越合戦で関東管領上杉憲政を破り、武蔵一帯の支配を進めると、武蔵国の守護代であった大石氏は、北条氏のもとへ下りました。北条氏の支配地政策の一つとして、氏康は氏照を大石氏のもとに養子へ送ると、大石氏の支配地を氏照に継がせました。こうして、滝山城は大石氏から氏照の居城へと代わっていったのです。
氏照は、合戦時に自ら先陣を務めるなど、数々の武勲を挙げたといわれており、勇猛果敢な歴戦の勇士であったといわれています。また、外交手腕も高かったとされ、戦国大名との交渉に使われたことを示す書状は全国各地に残されています。その他、織田信長や徳川家康とも親交があり、情報の収集にも長けていたようです。
滝山城での攻防
天文23年(1554)に北条、武田、今川による三国同盟(相甲駿同盟)が結ばれました。
しかし、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで織田信長によって今川義元が討たれると、今川氏の勢力は急速に弱体化していきます。すると、永禄11年(1568)武田信玄は同盟を一方的に破棄し、今川領の駿河へと侵攻。さらに翌年、武田方は残る北条方とも袂を分かつように、北条領へ侵攻を進めます。滝山城も北条領の拠点のひとつとして武田勢から攻撃を受け、戦場となりました。この永禄12年(1569)の滝山城での合戦は、武田勢がおよそ2万に対し北条勢はわずか2千程と両軍の戦力差は歴然で、武田勢に二の丸門まで肉迫されましたが、「堅城」との異名を持った滝山城を最後まで打ち崩すことはできず、見事に北条勢が滝山城を守り抜いたといわれます。
その後、武田勢は小田原攻めを敢行しますが、難攻不落の小田原城は落とすことはできず、甲州へと引き上げます。その帰路で、三増峠(現在の神奈川県愛甲郡愛川町)で北条氏照・氏邦勢と合戦になりました。
八王子城への移転と北条氏の最期
戦国時代も終わりに近づくにつれ、豊臣秀吉による天下統一の機運が高まりをみせます。秀吉に対抗するため、氏照は天正10年(1582)頃から新たに八王子城の築城を開始し、天正15年(1587)頃までに滝山城から拠点を移していきました。
秀吉の関東制圧の一環で、天正18年(1590)に前田利家・上杉景勝軍に侵攻され八王子城は落城します。この八王子城落城が決め手となり、本拠の小田原城は開城。氏照は、この戦いでは小田原に在城しており、八王子城での戦いに参戦することができませんでしたが、開城後は戦いの責任者として、兄の氏政とともに切腹し、北条氏は滅亡しました。